APRICOT2006/APNIC21が終わる

APRICOT2006,APNIC21でオーストラリアはパースに滞在した1週間が終わった。最近これをニートにblogに書いて行きたくても、ふと隙が出来たときには書きたいことが膨大になっていて、どうもうまく行かないですな。でもこの1週間を振り返って。

毎年増えて行く役割

APRICOT2005APRICOT2005で現地実行委員会的にはプログラム委員長であった関係で、今年もプログラムに関わり、結果的Contentsのトラックのコーディネータをやることになった。ついにAPRICOTのお役目もくっついてしまった。もうあんまりこれ以上お役目もらいたくもないけど、頑張ってやることには意義があろうかとも思うので、がんばります。

毎年増えて行く抜き差しならないミーティング

APNIC EC(理事会)に5年半、議長を3年務めていることになりますが、毎年なんだか抜き差しならないミーティングが増えていきます。ミーティングプログラムに乗っからなくて、おもっちいミーティングとしては以下。

  • ECプライベートミーティング - 2/27(月)。とても内容はこんなところに書けないですが事務局員の前では言えないこともあったりして、ついに初めて開催することになりました。1.5時間みっちり。
  • APNIC EC+APIAボード+APRICOTボード ミーティング - 2/27(月)。つまりこれは、バリでやることに決めてしまったAPRICOT2007を、本当にセキュリティ勧告的になかなか青信号が出ないバリでやっていいのか、という固めの儀式みたいなもんでした。バリの組織委員会は、京都のときの派手なジャンパーに引き続き、オレンジ色の目立つポロシャツで10人ほどの代表団を率いて現地入り。気合入っています。理事会議長である僕は、なんと、なんと、情報通信大臣のレターなどいただいてしまっています。もう、インターネット関係のカンファレンスをやると言うのが悲願になっちゃってます。結局APNIC的にも,綿密に再調査を行う、会員に安全情報を提供した上で判断は任せる,もう一度なんか起こっちゃったら1から検討しなおす、などの条件付きで、正式に受け入れることにしました。
  • APNIC ECミーティング - 2/28(火)。ECミーティングは火曜日の午前中がレギュラー。2005年の決算確認,2006年の予算確認,もろもろもろもろ。みっちり昼食時間半ばまで。白熱議論もありました。
  • APNIC EC+ASO AC ミーティング - 2/28(火)。ASO ACは、ICANN ASOの Address Council。アジア太平洋地域の代表3人と、APNICミーティングの度に顔を合わせて、最近どうだー、とやります。最近ガバナンス周りや、ICANNの組織改変など検討項目が多いので、電話会議が2ヶ月に一度から1ヶ月に一度に変更になったらしいです。

APRICOTに物思う。

APRICOTですが、今回トラックコーディネータとして苦労したのは、日本や韓国からネタを見つけだして喋ってもらうことの難しさです。京都のときのテーマもそうだったんですが、いまやアジアは日韓中をはじめとしてブロードバンドの観点では世界の中でも先進的と言っていいはずなのに、APRICOTの言語が英語だという一点で、発表者の多くが欧米からくるんですよね。これはciscoやJuniperが喜んで講師を突っ込んでくるってこともあるんですが、できればアジアの中の最新事例を紹介する場にしたいなぁと思うわけです。で、今回も日韓のネットワークゲーム事業者に話してもらおうと思ってがんばったんですが、話してもらえなかったんですねぇ。。。なんかもっと良いやり方があるのかもしれないのですが。

で、Geoff Hustonは何を語ったか。

ちょっと前にJANOGISP Columnの1月号が紹介されていまして、さすがにクイックレスポンス以降もうちょっと読み込みたいなぁと思って一応全部読んだのですが、まだまだ、石黒さんなんかが「ぐっと来た」なんていう境地には立てず、横滑りする感じがしたんですよね。
その辺も話したいと思って、レセプションの席上、たままた1人でたたずんでいた御大を捕まえて、以降バスでホテルに帰ってきて部屋の前で別れるまでの30分強くらいご一緒してトップリと。まずひとつは、「そんな間単にIPv6に乗り移ってくれるわけないじゃん」というのをとうとうと。
 
P2PだってBitTorrentだってSkypeだって、結局NAT乗り越えるじゃん、乗り越えられないものがあったら俺がコード書いてやってもいいよ。多層NAT?ちゃんと動くね。
シームレス?だったらお前、家で休んでたらいきなり人が土足でづかづか上がってきて目の前で指差されて「お前がマエムラアキノリだな」とか言われていい気するか? 普通玄関まで来てチャイム鳴らして、「マエムラさんのお宅ですか?アキノリさんご在宅でしょうか」って言うだろ。そのモデルのほうが絶対動くって。
IPv6へ動きたい、IPv6を具備するコストを正当化できる、ってことは、IPv6のアドレスのTCOIPv4TCOをそのコスト分以上下回ったときにしか本当には出現しないよ。IPv4は起こったじゃないかって?あれだって本当にたまたま起こっただけだぞ、偶然だ。

 
まーそうなんだよね。ここまで言葉を足して言われると、あの論文もその意味しているところが良く分かるようになります。なるほどねぇ。ビジネスの原理まで良く織り込んで考えられているということだと思います。しかし、悲観的だなぁ。
僕は日本という地域が、IPv6に随分近くまで手が届いていて、提供者を含むコミュニティも割りと密に連携できていて、日本だけでも先にIPv6インターネットへReadyとなって行くシナリオを考えたいんです。


APNIC EC再選

実は今回、APNIC ECの僕の任期が切れるタイミングで、JPNICから推薦をいただいて出馬しておりました。結果的には当選です。ご支援いただいた方々には感謝の念に堪えません。

なんか今回の再選は感慨深いのです。2000年の10月が初選出だったですが、もう足はがたがた、対抗馬は現任のVinh Ngoで、英語ぺらぺら喋るし、よくあれで彼を負かして当選したものです。
議論について行くだけで精一杯という最初の状態から、やっとひとつくらい意見を言えるようになり、もうちょっと良くなり、1回目の再選を経てもうちょっと良くなり。
次には議長をやれといわれるようになり、また議事進行なんてろくすっぽ出来ない状態から、ちょっとづつ出来るようになっていったらいつも間にか3年も議長やっちゃいました。
今回のAPNICミーティングでは、ECプライベートミーティングなんか主導でやってみたり、それにつながるアクティビティを主導してみたり、ECミーティング自体もキチンとチェアすることが出来たと思うし、まー、チャンと仕事できるようになったもんだなぁと、超個人的に感慨にふけっておりました。

そんな感じが、中国人の目上の皆さんからも「ま、お前が議長だよ、がんばれ」と言ってもらえているのにつながっているかなぁと。

(なんか、自画自賛みたいですみません。自画自賛じゃなくて、前の状態がひどかった、って話なんですけどね。感慨深いことには変わりなく。)

しかしながら、2000年の頃なんかを振り返ると、JPNIC全体がまだまだAPNICのプロセスに適応しつつある段階で、WGメンバを初めとして事務局員も一緒に、本当に良く頑張ってたよなーと思うんですね。最近になってやっと、ちょっとした戦略を立てながら進められるようになってきましたが、そんなものの元は全てあの時代にあるよなぁと思います。

APNICも、1997年にPaul Wilsonが事務局長になって、それまで未整理で渾沌としていたAPNICの業務をいろいろとキレイに整えてくれて、3年経った2000年2月のAPRICOTソウルの時にその象徴であるかのように今の新しいロゴが発表された印象が強く残っていますが、そのときは単なる基礎固めができたというだけで、それからの6年間で随分立派になったなぁと思うのです。事業規模も4倍です。

4期目は、料金改定、、IPv4枯渇、、とても重厚長大なテーマが目の前に横たわる大変な任期になりそうですが、引き続きがんばりたいと思います。