平原正樹さん逝く

その前に、3ヶ月間放置の反省

 5月以降、RIPE, LACNIC, Interop, JANOG, JPOPMとたくさんのイベントがあったのに、また、このブログもそういう機会にしか書かないのに、結局書いていなかった。反省。バックデートして数行の印象論だけでも書こうかなぁ、出来ないかなぁ。

本論

 本日、平原正樹さんの通夜に行ってきた。平原さんには、実はあんまり仕事で関わったことはなかった。お会いした機会も少なくて、JPNIC運営委員長だった時代に、会員の担当者として会議に出たこと、APNIC14@北九州でお会いしたこと、くらいではないだろうか。Meritに行っていた頃に何かコンタクトした気もする。

 しかし、今の仕事からは、お礼してもお礼しきれない重要なお方である。JNIC/JPNICの創設に寄与なさり、初代の運営委員長であった。今日の御通夜では東田幸樹さん(JPRS社長)とちょっとお話ししたが、当時は事務局というシステムがなかったので、運営委員長+事務局長みたいなものだ、とのこと。そうかもしれない。当時の様子は、こんなところで垣間見られるか。

APNICに関しても、APCCIRNの実験プロジェクトとして2年間のプロジェクトを、村井さんと連名で提案なさり、その推進をAPNIC-tf@JPNICという形で進めていらっしゃった。

訃報をAPNIC ECに流すと、即座に花送ってくれないか、お悔やみを伝えてくれ、の声が相次ぎ、ついでにTWNICからも後で払うから立て替えておいて花を出してくれ、と大きな反応があった。

最近では、NwGNの「あかりプロジェクト」を進めていらっしゃり、惜しむ声多数。通夜後の宴席では、豊富な知見と推進力とともに、面倒見がよく、飲みに行っては楽しく、笑顔の印象しかない、といった声が多数伺えた。

数少ない僕と平原さんの関わりは、北九州で行ったAPNIC14ミーティング。APNIC設立の大きな立役者として、昼間のセッション、晩のレセプション、どちらかで基調講演をいただきたいと思ったが、そういう場がお嫌いなのか、断られた。結果的にお会いできたのは、レセプション後に繰り出した小倉の街の中だったような。そのときも楽しく飲んだ印象だけは残っている。


惜しむ声多数。僕自身も、APNICやJPNIC創設時の話を伺いたく、メールを書こうとしていたところだった。ご冥福をお祈りするとともに。今しばらく人柄を振り返りながら、自分の仕事に遺志を吹き込みたい。